母の愛のような 南国で感じたロマンス
昭和55年2月に博多で購入した九州全域のガイド
由布院で泊まった千由家はもうないかな?
20代の前半だった。
会社から九州の博多で講習会の要望があるので、講師をやってこいというのだ。
九州のお客さんを相手に1週間もである。
しかし、わたしはこの機会を見逃さなかった。
出張の後に有休をくっつけて、計2週間もの九州旅行?に仕立て上げたのだ。
そんなことができる時代だったし、会社だった。
もちろん九州の山に登るためである。
由布岳、鶴見岳、九重(くじゅう)、開聞岳(かいもんだけ)。
欲張ったものだ。いわば山のハシゴである。
大きなリュックを担ぎ、手にはアタッシュケースとスーツ、登山靴ブラブラ。そんな変な恰好で大阪から新幹線に乗り込んだ。
昭和55年2月16日。博多に着いたら本屋でガイド(写真)を購入し、仕事から帰ったホテルの部屋で毎晩読みふけった。何もしらない九州の山の予備知識を得るために。
1週間の講習会は無事終わり、ホテルのフロントからアタッシュケースとスーツなどを送り返し、見知らぬ土地での行脚がはじまった。
由布院では旅館に泊まったが、そのころの由布院はまだ田舎の普通の温泉だった。
双耳峰の由布岳が雪を抱いていた。鶴見岳は霧氷の世界だった。
九重では「坊がづる」で野営した。
3泊目は、義理の姉の実家に泊まった。
宮崎の田舎の下車駅名を知っていただけだった。
日豊本線のその駅に降り立った。
のんびりした漁村であった。
私は、見つけた人に義姉のお母さんのフルネームを言って、家の場所を教えてもらった。
その家は駅からさして遠くはなかった。
犬がけたたましく鳴いていた。
義姉から先に連絡があったようだが、お母さんは、突然現れ、手土産ひとつも持たない汚い山男を、何の抵抗もなく受け入れてくれた。
「よう来たとね。」と言ったかな?
その人は若い頃はさぞ綺麗だったに違いなかった。
実家の義姉から想像してもみた。
物言いはさすがに九州の女。はっきりしている。
兄の結婚式以来の再会である。
風呂をもらい、その夜はその頃まだご存命だったご主人と刺し迎えで酒を飲んだ。
いうまでもなく、海の幸を肴に。
ご主人の仕事は国鉄のSL運転手。興味深い話が聞けた。
九州の山の話を聞いても、高千穂(宮崎の山)くらいしか分からないようだった。
翌朝、お母さんは駅まで見送ってくれた。「気を付けて行きなさい。」
私は車窓から何度も手を振った。
子供をすべて社会に送り出したご夫婦は、どんな気持ちで私を迎えてくれたのだろうか。そしてあの朝、どんな気持ちで見送ってくれたのだろうか。
ジーゼル車は錦江湾(きんこうわん)の向こうに桜島を見ながら走った。
その夜は指宿(いぶすき)に泊まって、翌朝開聞岳に登った。
九州本島最南端の開聞岳山頂の岩の間にも雪があった。
そのあと鹿児島から飛行機で帰途に着いた。
......
そのお母さんは先日9月7日にこの世を去った。
もう一度くらいお会いできると思っていたのだが。
竹内まりやの「駅」でも聴きたくなった。
(熊五郎)
コメント(2)
- 継父の実家は久大線庄内にありました。ひと夏戦後の食糧難の時世話になりました。娘が二十歳の頃荒れた田舎家を訪れました。
湯布院は七年ほど前に旅行しました。あ、昔親戚の女の人と、私が婚約する羽目になった人と三人で九重の高原歩いたことがあったような。縁はいろいろあったけど、今はすべて切れてしまったので忘れていました。 (agewisdom) 2017/12/6(水) 午後 0: - > agewisdomさん 人生いろいろありますよね。九州にもご縁があられたとは思いませんでした。(熊五郎) 2017/12/6(水) 午後 2:17