忘れさられた道を探る 志賀坂峠から八丁峠

投稿日 2016年06月12日

志賀坂峠から両神山八丁峠付近の県界尾根
赤の実線が推定される志賀坂峠から八丁尾根に至る道
赤岩P1の手前で北側斜面を八丁峠側へほぼ等高でへつっているようだ
青実線は今では撤去された八丁峠を越えニッチツに向かう送電線(想定線)

訂正:坂本から八丁峠を越え中津川のニッチツ鉱山に至っていたのは送電線ではなく、鉱石搬出用の索道です。また青線の位置にズレがあります。

山道を歩きながら、こう考えた。

ひょっとして、今使われている登山道以外に、忘れ去られた古い道があったのではないかと。

実際には山道を歩きながらではなく、志賀坂の諏訪山からの尾根道を赤岩P1まで登れないかと、いろいろ調べていて、ネット情報などで古い道があると気付かされました。


それはネットで見つけた「放置された道標。撤去しないのは無責任きわまりない」という意味の一言。

確かにあまり人の入らない山域で、古い道標などを見かけることがあります。歩かれなくなった道なのに無責任だということでしょう。

山には古い道標、壊れて落ちた看板、いたるところにある赤テープなどの目印。これらはネットの情報氾濫にも似ていて、古いも、新しいも、はたまた正しいか誤りなのか、取捨選択の責任は利用する側にあるのではないでしょうか。

わたしなんぞは、そんな古い道標を見つけたら大喜び。昔ここを歩いた人がいたんだと、興味が湧いてきます。

そんな道標や標柱があるのが、今回とりあげる八丁峠近くの山域です。この地域は、多くのハイカーが、ただただ整備された道を辿って両神山を目指すのですが、少し視点をずらすと、忘れ去られた道の存在が見えてきます。

ところで、私が古い道があったのではと判断する理由は、

古い道標(写真2 ,写真3)

忘れ去られた標柱(小鹿野山岳会のもので赤岩P1の北側斜面にある)

不思議な位置にある石祠(写真4 )

平凡なピークに立派な山名(蓬莱山)

諏訪大明神の社

志賀坂峠付近の古い馬頭観音

など。古さの違うもの混在は承知ですが、何かがそこに在ったと思えてなりません。

八丁峠付近の山域の地図を眺めると、西から赤岩尾根を辿ってきた群馬と埼玉の県界稜線。それはあの大きな山体である両神山を前にして、突然両神山より300mから500mも低い地味なピークを拾いながら北上して、二子山を貫いています。

この県界稜線上には、昔の往来を示す峠、雁掛峠、赤岩峠、八丁峠、志賀坂峠があり、群馬最奥の集落と、埼玉最奥の集落を結んでいたようです。峠越えという意味では、かなり古くから往来があった山域と言えます。しかし交通の便がよくなり、今ではそれらの峠道は忘れ去られ、一部は消滅しつつあり、また一部は登山者が辿る道として踏み跡を留めているものもあります。

写真1 諏訪山への道
諏訪山まではハイキングコースとして整備されている

現在利用されているこの辺りの八丁峠に通じる登山道は、

①八丁隧道入り口の駐車場から八丁峠に登る道(メインルート)

②坂本から河原沢川沿いに八丁峠に登る道(①の利用でこちらは最近荒れぎみ)

③秩父中津川の落合橋から八丁峠に登る道(よく利用されている)

の3本です。①は言うに及ばず両神山に八丁尾根から登る利用者の多いルートです。しかしこの道は志賀坂トンネルから秩父へ抜ける林道(金山志賀坂線)が整備され、八丁隧道(昭和54年開通)が抜けたこともあってか利用者が多くなった比較的新しい道です。②と③の歴史は分かりませんが、坂本と中津川を結ぶ古道の可能性はありますが、②は最近利用者が少ないようです。(①に奪われた?) ③は秩父市経由を便利とする登山者の利用が多いと思われますが、①よりは短くかつ容易な道なので利用者が多いようです。

これらの道以外(いや以前)に志賀坂峠から八丁峠に至る尾根道があったようです。

今回その古い登山道の可能性があると考えたのは、ネット情報からでしたが、調査を進めるうちに、佐藤 節(みさお)女氏の「西上州の山と峠」が、割と古い記録であることに気付き、さっそく裏付けをとるために読みなおしました。

その本によると以下のような記述(青字)が見つかりました。

序編 「志賀坂峠」

西武秩父線開通を機に、小鹿野から志賀坂へ日に2回のバスを運行して、観光開発に乗り出した西武系の資本は、この峠(志賀坂峠)の南面にロッジ(昭和45年オープン)を開設し、美しく変化に富んだ未開の山域、両神・二子・白石などのベースにしたり、峠までの道を整備していましたが....

西武が志賀坂峠周辺の登山道を整備していた様子が伺えます。(ロッジとは志賀坂ロッジのことで、現在の国土地理院電子国土地図でも尾根上に建物が記載されていますが、昭和55年以降休業し、いまでは廃墟となっているか、撤去されていると思います)まずここで、西部がこの辺りの開発に力を入れていたことが伺えます。

西側(群馬県神流町間物側)から踏まれた道は、植林の中を電光形に登り、窪みでやや展望のおちる(志賀坂の)旧峠を避けて、それより北寄りに、南は赤岩P1・北は魚尾道峠へと続く稜線上の細い道に合しています。

この記述のように志賀坂峠には神流町間物からの道(西側)を合わせますが、国土地理院の地図のように、志賀坂トンネル上の最鞍部ではなく、北寄りの小ピークの北側を通過して埼玉県小鹿野町坂本に下っています。峠には南北にも道があり、北は二子山の魚尾道峠(股峠と思われる)、南は赤岩P1へ通ずる道があったと記されています。

写真2 佐藤 節著「西上州の山と峠」に掲載された写真(昭和45年)
赤岩P1の東の肩にある古い道標
埼玉国体のときに立てられたようだ
二子山、志賀坂峠に至るとある
木の陰の鉄板の道標は今でも存在するが赤錆びて判読できない
木製のは下の道標が左半分だけ残っている(写真3)

写真3  現在の道標(2015年5月撮影)
木製の道標は写真2の下のもののみが残っており
かろうじて二子山(志賀坂峠方面)への分岐点であることがわかる
鉄板の道標はこの写真の左に傾いた状態で赤さびていた(判読不能)

・・・ここ(小ピークの北側の志賀坂峠)には道標があり、埼玉国体の折に、両神八丁峠へ向かって開かれた県界縦走路のためのものですが、このコースは、赤岩P1にとりつくまでが長く、労多く一般向きではありませんので、訪ねる人も少なく、おいおい草深くなってゆくようです。しかし、赤岩P1の懐に入ってからの深山味は、雲取あたりの縦走路ではとても味わえないものがあり、絨毛のような苔を踏んで、深い樹林をわけ、シャクナゲの乱れ咲く岩っぽい山肌をよじる楽しさは、同じ両神でも、人出の多い八丁尾根などにはない滋味があります。縦走路は赤岩P1を踏まず、東面をレベルに巻いて八丁峠に出ています が、県界尾根と八丁尾根のジャンクションをなすこのピーク(赤岩P1のことと思われる)では、訪う人もないままに、身を埋めつくす花も苔も、そして眺めも、自分たちだけのものなのです。

志賀坂峠から諏訪山を越えて南下する道は赤岩P1に接近しますが、P1を踏まずP1北面の標高約1400m付近をへつって(トラバースして)八丁峠に至っていたようです。実際、今でも赤岩P1の八丁峠寄りの肩には古い道標(写真2,3)が二子山を示しており、そこが分岐点であったことを示しています。記述にシャクナゲが乱れ咲くとありますので、この辺りのシャクナゲのある標高1400mから1500m付近と符号します。佐藤氏が歩かれたときからすでに荒れ気味だったようです。

写真4 現在の八丁峠から赤岩P1寄りに少し登ったところにある南向きの山の神
秩父市の中津川金山と群馬神流町、または小鹿野坂本を
結ぶ古道があったのだろうか

神流川南稜編 「両神赤岩尾根」

通常赤岩尾根第1峰と言われるジャンクション・ピーク(赤岩P1)に登ることは、割合に容易で、八丁峠から、八丁尾根をそのまま北(北西の間違い?)へ、山の神(写真4)を経て、坂本~金山の送電線(今は撤去されている)を横切ってとりつきます。中段に、埼玉国体の時に立てられた立派な道標(写真2,3)があって、左から巻き登るP1経由の赤岩尾根縦走路と、右にやや下り気味に巻き、中段の岩場を縫ってP1北の肩で県界尾根に合する志賀坂道とわけますが、赤岩道を示す左巻き道も、先は細く、登られるところを高みへ登って山頂にでるようです。(略)県界稜を歩くために、志賀坂のトンネルからはるばるとたどって、この山の懐に入ったとき、(略)判然としたルートとばかり思っていましたのに、志賀坂~八丁縦走路は、この峰(赤岩P1)周辺のルートが不明確になっていて、北の肩から東の鞍部に向かってほとんど等高に付けられている八丁ルートを失し、尾根通しの踏跡に入って、美しい花のトンネルを、ジャンクションピークの山頂までつめあげてしまいました。

志賀坂峠から諏訪山を経て赤岩P1の北面をへつった道(佐藤氏はこの尾根道を志賀坂道と呼んでいる)は、赤岩P1の東の肩に届いていたようですが、このころから北面の斜面の道は消えかけていたようです。ネットの数少ない情報によれば、踏み跡はほとんど無く、唯一小鹿野山岳会の標柱のみが痕跡になっているようです。

文章にある送電線は、現在の国土地理院の電子国土地図には記載されていますが、撤去されたようで、今ではありません。

写真5 二子山からの両神山、諏訪山の山域(2011年5月撮影)
赤の実践が古い登山道(志賀坂道)の推定位置
送電線は想像線

訂正:青線は送電線ではなく鉱石搬出用の索道でした。位置も正しくありません。

また、記述の八丁峠の位置が判然としませんが、現在の八丁峠の位置より赤岩P1寄りの鞍部にあった可能性もあるかと思います。赤岩P1北面をへつった道はさらに上の、赤岩P1の基部で合流していたようです。

以上、「西上州の山と峠」の記述から志賀坂峠から諏訪山を経て八丁峠に至る道(志賀坂道)があったのは確実のようですが、それが埼玉国体の折にはじめて作られた道なのか、もっと古い時代からの道であったのかは定かではありません。

昔の山を愛する諸先輩が辿った道は、国体のための緊急処置で、赤岩P1の北面という傾斜のきつい地形を少々無理して作られたのでしょうか。このような道は早晩消えゆく運命にあるようで、今では辿る人も無く荒れ放題のようです。しかしこのような道に郷愁を感じるのは私だけではないはずです。放置された道標を単に批判することなく....

ここまでは推定で書きましたが、機会をみて現地調査をしてみたいと思います。

青字の部分は「西上州の山と峠」からの抜粋です。

写真2は「西上州の山と峠」からのコピーです。

参考文献:佐藤 節著 新ハイキング社 新ハイキング選書 第一巻 昭和57年初版発行 「西上州の山と峠」

(熊五郎)​

 

コメント(2)

  • 迷子になったりしませんか?山のことがわからない私には不安ですが。もっともなぜ山に登るかさえわからないんですからこれは論外かな。 2016/6/12(日) 午後 3:0
  • > agewisdomさん そうですね。ルートファインディングは必要ですね。もう歩かれなくなった道を辿るのは、一種怖いもの見たさにも通じるといったところでしょうか。(熊五郎)2016/6/12(日) 午後 5:01

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