石塔婆を見てきました   

投稿日 2019年2月22

石塔婆。見てきたといっても、山のついでに通過したか寄っただけですが、ときどき見かける石碑が何者なのかは以前から気になっていました。

寺の境内や墓地などに立っていたり、集落の一角に他の石仏と並んで立っていたり。その多くは緑色の石板が使われています。

最上部が三角で2重線が入っており、梵字が深く刻まれ、その下に何やら文字が刻まれています。よーく観察すると、それが結構古いのです。大体、1200年代から1300年代ですね。鎌倉時代や南北朝時代、室町時代です。7,800年前ですね。

登山をしていると通過する峠や、里を見下ろすピーク、山里の道端などにある山の神、地蔵、庚申塔、月待塔(二十二夜や二十三夜塔など)、馬頭観音、石の道しるべなどの石仏、石碑はだいたい古くても江戸時代中期の文化文政以降。だいたい古くても3,400年前です。

おそらく昔のものが失われたというわけではなく、その時代時代の流行(はやり)だったようです。峠に地蔵を置いたり、巡礼のための道しるべを辻に置いたりしたのは江戸時代の人たちが始めたことなのでしょう。戦乱の世の中ではなかなかできないでしょうから、平和な時代がやってきたということなのでしょうか。

ところで石塔婆ですが、一種の供養塔ですので墓石に類するもののようです。つまり先祖や故人を供養するためのものですが、追善供養といって今でもその風習は続いています。ただし現代では木の板に墨で字を書いた塔婆が使われますが。

追善供養を調べて見ると、今を生きている者の善行が故人の善行にもなり、より高い極楽浄土へ行けるように祈願するということらしいです。つまり生きている者が善行を重ねれば故人も成仏できるということでしょう。これはものすごく世の中を安定に導く発想ではないでしょうか。故人だけではなく生きているもの同士にも拡張されて、人々の心や国の安定に結びついているのではないでしょうか。こう考えると日本人には基本的に完全な個人主義はいないでしょうね。

先に書いたように石塔婆は鎌倉時代から南北朝時代、室町時代が最盛期で、それ以降はあまり作られなくなったようです。地域的には関東がダントツに多いようです。私の在住する北関東でもお寺の境内などで見かけることが多いですし、よく行く熊谷辺りや奥武蔵、秩父でもときどき見かけます。

石塔婆の形は時代による推移があるようですが、最も盛んに作られた時代ではほぼ規格化されていたと言ってもいいくらい形式が揃っています。上から三角形の頭に二本線、蓮台の上に大きな梵字で顕わされた主尊種子、少し小さめの脇侍種子、偈文(げもん)、願文、供養者名、紀年号などが刻まれるようです。

使われた石は緑泥片岩が多く、そのため石塔婆の多くは緑色です。このため青石塔婆とも呼ばれるようです。緑泥片岩は群馬県から埼玉県秩父地方、奥武蔵辺りに露出している三波川変成帯の一部から産出されます。平らに剥離し、加工に適した硬度、見た目の美しさから使われたようです。秩父などを歩いていると、よく緑色の岩を見かけます。有名な場所は群馬県の三波川ですが、他に下仁田の青岩公園、東秩父村槻川の源頭部などがあります。いずれも三波川変成帯に属しているようです。

ときどき見かける石塔婆。7,800年前の戦乱や疫病の多かった不安の多い世の中で人々が神仏に頼ろうとした気持ちが現代のわれわれにも伝わってきます。生きているものの善行が死んだ者の極楽往生をも助け、さらにあらゆる生きとし生けるものが幸せになるよう願う。そんな気持ちが込められた石板。今の日本人にもこのような気持ちが心の源流となって脈々と流れており、日本人の心の安定性、優しさ、正直さの基本となっているのではないでしょうか。

秩父郡長瀞町の野上下郷石塔婆

埼玉県秩父郡長瀞町にある応安二年巳酉十月日(1369年)の青石塔婆です。国道140号を樋口駅前から寄居方向に走ると左に見えます。国内最大の青石塔婆で、高さ5mを超えます。近くの仲山城(跡)の城主をその夫人が追善供養したものとのこと。緑泥片岩で作られており、最上部に三宝珠、蓮台に梵字で釈迦如来。その下の偈文は光明真言を梵字で「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏」と書かれているようです。

熊谷市江南大沼公園の嘉禄銘板石塔婆

熊谷市江南町大沼公園の弁天島にある石塔婆です。これはレプリカで本物は江南文化財センターで展示保管されています。嘉禄三年(1227年)ということですから、鎌倉時代中期に当たります。国内最古とのことです。田んぼ脇で使われていたのが発見されたようです。阿弥陀三尊像が刻まれていますが、主尊が阿弥陀如来。左脇侍が勢至菩薩、右脇侍が観音菩薩とのことです。梵字ではなく仏像が彫り込まれています。初期の頃はこのような形式だったのでしょうか。

秩父市浦山冠岩の石塔婆

秩父市浦山の山奥深くにある廃村冠岩の青石塔婆です。数年前までは背後の石仏とともに小屋に収まっていたようですが、傍らに壊れて吹き飛んでいました。今では人気のない冠岩ですが、廃屋が寂しげに残っています。応永十年(1403年)から文明七年(1475年)のものらしいです。

ときがわ町慈光寺参道の青石等塔婆

関東最古といわれる慈光寺の参道途中にある鎌倉時代から室町時代にかけての青石塔婆です。寺ゆかりの僧侶が逆修供養のために造立したと説明板にあります。逆修供養とは生前自分の死後の成仏を願って行われる供養です。

(熊五郎)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA