マドンナに逢える確率は? 雷鳴のロマンス

夏が来ればちょっと遠征して2500から3000m級の山に登りたいものである。北関東に住む私にとっては、3時間くらい車で走れば八ヶ岳に登れる。八ヶ岳はルートも多く、高山の雰囲気が味わえる手ごろな山である。

ここでいう「マドンナ」とは好感のもてた女性くらいの意味だが、山に登っているとそういう女性に出逢うことがあるものだ。好感が持てたとはいっても、長い時間話をしたとか、何かその女性にまつわるエピソード、例えば困っているところを助けたとかということではない。マドンナは突然現れ、好印象を残してすぐに消えていくような女性である。

この日は八ヶ岳の稲子湯からシラビソ小屋のあるみどり池に入り、本沢温泉から天狗岳、夏沢峠をぐるっと廻る予定で歩いていた。天狗岳に登り根石岳を越え、箕冠山(みかむりやま)へと辿って夏沢峠へと下り道を歩いていた。

硫黄岳の方で雷鳴が聞こえてくる。今日は硫黄岳には登らず、夏沢峠で本沢温泉へ降りるので、そう焦ってはいなかった。夏沢峠には山小屋もあるし、雨もしのげるだろうということもあった。

雷は大きくなりながら周期的に鳴っているが、その周期を破って突然大きな音が鳴り響いた。それは雷ではなく、何か大きなものが崩れ落ちる音だった。ゴーーーー、ザザザザザ。樹幹から見えていた硫黄岳の火口壁が崩れる音だと思われた。夏沢峠に着いたら、中年の男性が休んでいたので聞いてみた。

「先ほど、雷じゃない大きな音がしませんでしたか。」

「しました、しました。かなり大きい音でしたね。」

「やはり....! 硫黄岳の火口壁が崩れたようですね。」

「なるほど、そういえばそちらの方から聞こえましたね。」

あの大きな音は空耳ではなかったようだ。

その男性とは別れ、夏沢峠の山小屋を抜けて、本沢温泉への下降口へ向かった。そこにはひとりの女性が山小屋に頼るように身を寄せて座っていた。

「雷、近いですね。」

「怖いんで、ここで休んでいます。」

雨は降っていなかったが、雷はかなり近い。硫黄岳の上あたりだろうか。私は、その女性がこれから硫黄岳方面に行くところを、ここで雷をやり過ごそうと、待っているのだと思った。

「雷、早くやめばいいんですけどね。気を付けて。それじゃ」

「ありがとうございます。」

たったそれだけだった。私はそのまま本沢温泉に向かって下り始めた。

半分くらい下ったところだったろうか。雷はすでに遠のき、辺りは静かだ。後ろから人の気配がするので、振り向くと、なんとあの女性ではないか。

「あれ、硫黄岳へ登るとばっかり思ってましたが、今日はどこまで?」

「雷がおさまったので降りてきました。今日は本沢温泉に泊まります」

「あぁ、そうなんですね。」

その後、その女性とはいろいろな話をしながら歩いた。なんせ、私に追いついてくるくらいだから、結構早く歩ける人だが、私に合わせてくれているようだった。山の経験も豊富で、いつもひとりだそうだ。本沢温泉について、女性は小屋に予約の確認に行った。私はちょっと取り残された気分になって、これから稲子湯までの長い道のりを考えながら、パンを口に運んだ。

とうとう雨が降り出した。本沢温泉が単なる通過点でしかない私にとっては、軒先を借りて雨をしのげるだけでも幸せと思えてくる。あの女性は小屋番と廊下を歩き、部屋へ案内されるのを見たのを最後に、二度と逢うことはなかった。

(雅熊)

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