不思議な体験を話す人 山の怪のロマンス

​​投稿日 2019年10月18日

私は天候の悪化を感じて急いで山道を下っていた。まだ山頂に近い高所で、道は岩壁をへつるように付いていた。視界を失うほどではないが眼下は白く濁ってかろうじて下のほうの樺の枝が騒いでいるのがわかった。足元は浮いた平たい岩がころがっていて不安定だ。小雨も降り出した。

​身体が濡れてきたので雨具を出すのも兼ねて岩の窪みに腰掛けて休んだ。早く降りなければならない。少し焦っていた。ふと見ると岩が少し棚状になったところに小さな碑があった。「........君ここに眠る」

遭難碑だった。おそらくこの近くで遭難した人なのだろう。昭和30年ごろのようだ。辺りに人の気配は無い。少し雨風がしのげるこの場所に留まるか、急いで下山するか迷ったが、一時的な悪化ではなさそうだ。雨具を付けて急いで下ることにした。

​急な道を下っていくと幸いガスの下に出たのか少し明るくなった。しかし風は私を後ろから押すほどだった。やがて森林限界よりも下って樹林に入って一息つくことができた。「ここまでくれば一応安心だ。」そう思っていると後ろから70歳を超えているであろう老人が降りてきた。

​その老人も一息つきたかったのか、私の横に腰を下ろした。

「ガスに巻かれないでよかったな。」

「そうですね。岩場では少し焦りました。」........ 「遭難碑のあるところから一気に降りてきて足がガクガクです。しかしここまで来れば安心ですね。」......

​老人はそれには応えなかったが、こんな話を始めた。

​「あぁ、その遭難碑か........ わしはこの山が好きで何度もこの道を歩いたが、よくその遭難碑の人と出会ったよ。」

​「遭難碑の人?」

​「そう、遭難した人だ。」訳が分からぬままその老人の話し出すのを待った。

​「この山は今回のようによく天気が急変することがあってな。いままでもときどき今回のように急いで降りてくるようなことがあった。時刻は3時ごろだったかな。そんな時間にこれから登ってくる人と遇ったんじゃ。」

​午後の3時ごろといえば、そろそろ急いで下山しないと途中で陽が暮れてしまう時刻。登りでこの場所3時は普通有り得ない。言葉にしなかったがそんな目で老人を見た。

​「そう、不思議じゃろう。これから登ろうなんて。」

​「その人は、20代か30代でまだ若そうだが、目がうつろで気迫がまるで無い。斜め下を見つめながら私の横をすぅーと通り抜けたんじゃ。その時はそれだけだったが、下り着いた山小屋の主人にそのことを話してみた。」

​「この上のほうで、これから登ろうという人とすれ違ったが、今日はどこまでいくんかねぇ。」

​小屋の主人は。「あんたも遇ったかね。」「そりゃ、昔ここで遭難した人じゃないかって、みんなそう思ってる。」「上のほうに遭難碑があったと思うが、岩場で靴を無くし、下山できなくなった人があの辺りで亡くなったんじゃ。とびきり雪の多い年だったそうじゃ。」「みんな、あの人は靴を探しに来ているんじゃないかって噂しとる。」

​老人は、そういえば足元がぼやけてよく見えなかったが、片方の靴が無かったように思えた。と付け加えた。

​山から下山しているとき、こんな時間に登り始めて、今夜どこに泊まるの?と不思議に思える人が登って来るものである。そういう人は挨拶に応えないことが多いのは、私の勝手な思い込みだろうか?

(熊五郎)

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